1932年生まれ。音楽評論家。69年、月刊誌『ニューミュージック・マガジン』を創刊(80年に『ミュージック・マガジン』に改称)。82年に『レコード・コレクターズ』創刊。69年、第一回日本ロック・フェスティバルをプロデュース。75年には、第一回ブルース・フェスティバルを開催。フォーク、ロックからラテン、アフリカなど非西欧圏の音楽まで世界中のポピュラー音楽を紹介し、日本における音楽評論を確立させた。著書に『ラテン音楽入門』(62年)、『大衆音楽の真実』(86年)、『ポピュラー音楽の世紀』(99年)など多数。




商業誌への初の寄稿は1957年、『ミュージック・ライフ』への「新しい音楽カリプソ」という記事。1962年、初の単行本『ラテン音楽入門』を上梓。1986年『大衆音楽の真実』、1999年『ポピュラー音楽の世紀』など、世界のポピュラー音楽全体を見渡した著書多数。1995年の『俗楽礼賛』は装丁も自身で担当した。
聞き手:佐藤 剛(音楽制作者連盟副理事長)
文:杉山 敦
写真:下山ワタル


ボブ・ディランやビートルズが新しい音楽を始めた。


──日本のロック評論を確立されたということで今回顕彰させていただいたのですが、とうようさんは1932年生まれですから、音楽に芽生えた時期というのはロックがまだ存在していない時代ですよね。
「僕は京都の田舎で生まれて、歌謡曲とか親がやってた邦楽以外のいわゆるポピュラー音楽はまわりにほとんどありませんでした。京都の大学に入って初めてそこで世界が広がった。白い紙にインクの染みがつくみたいにそれまで知らなかった音楽をどんどん吸収していきました。小っちゃな中古のラジオを買って自分の聴きたい音楽を探して聴いたりすることで、初めて音楽の世界にこちらから積極的にアプローチできるようになったんです。当時は衝動的に聴いてただけだったんですけど、どんどんいろんな音楽、歌手の名前をラジオから聞こえてきたらメモして覚えていきました」
──とうようさんの大学時代というと、ロックンロールが始まった50年代ですよね。そして、ロックが世界に大きな影響を与えた60年代の後半、69年に『ニューミュージック・マガジン』を創刊しました。
「ボブ・ディランやビートルズが新しい音楽を始めた。若者たちが今まで求めていた音楽が初めてここに形を取って出てきた。それをフォークやロックといった音楽ジャンルではなく“ニューミュージック”という形で、あるアメリカの雑誌で論じられていたのを読んで、“ああ、そうなのか、これは音楽の種類じゃなくてまったく質的に違う新しい音楽なんだ”と感じて、そうした音楽を語る活字の場として『ニューミュージック・マガジン』をスタートしたわけです」


“ニュー”をはずし、ジャンルにこだわらなくていいんだと。

──ビートルズやボブ・ディランといった新しいロックを取り上げる雑誌は当時、『ニューミュージック・マガジン』のほかに日本にはありませんでした。今はロックだけではなく、非西欧圏の音楽も積極的に紹介しています。ご著書の『大衆音楽の真実』は、そうした世界中のポピュラーミュージックを取り上げていますが、この本は音楽制作やライブで沖縄から始まり、ジャマイカや、ブラジル、ラテンと向き合うようになった僕にとってバイブルのような存在です。
「『ニューミュージック・マガジン』は、この新しい音楽を若い人たちみんなで大事に育てて、語り合い、それを通して社会を見る、新しい角度で音楽をとらえる場として作ったわけなんだけども、そうなると、それ以前の僕も聴いてきたラテンや邦楽は“オールドミュージック”であり、“あれはダメな音楽なんだ”となっちゃうわけですよ。でも、本当にそれでいいのかなというじくじたる気持ちがどこかにあったんです。それで、ブラジル音楽の話が出てきたり、ブルースの記事を作ったり、だんだん音楽の範囲を広げてきちゃったんですね。それと、80年にタイトルを『ミュージック・マガジン』に変えたときは、歌謡曲をちょっと模様替えしたに過ぎないような、“ニュー”でもなんでもない音楽が日本では“ニューミュージック”と呼ばれるようになっていて、僕たちが創刊時に考えた“ニューミュージック”とは全然違うものになってた。じゃあもう誌名から“ニュー”をはずしてしまおうと思って、『ミュージック・マガジン』にしたんです。結局、そうしたことで、ジャンルにこだわらない音楽雑誌でいいんだと、自分が引きずられていったんです。だから、ブラジル音楽だってアラブの音楽もアフリカの音楽もなんでも取り上げる」


好奇心がエネルギーの源になるはずなんですね。

──ロックやフォークから始まって、それから世界の音楽に広がっていったとおっしゃいましたが、とうようさんは『ニューミュージック・マガジン』創刊のずいぶん前、62年に『ラテン音楽入門』という本を書いていらっしゃいます。
「そうなんです。最初から、なにか二筋の道を知らない間にバランスを取りながら両方を行ったり来たりずっとやってましたね。でも、アメリカの音楽だけが価値があるわけじゃなくて、ラテンアメリカにしても、ヨーロッパにしても、アフリカにしても、アジアにしても、それぞれが価値のある音楽を持ってるということは前提として自分にはありました。ただ、知らないところが多かったから、だんだんそれを知るようになってきて世界が広がっていったわけです。86年に書いた『大衆音楽の真実』という本では、いわゆる“ワールドミュージック”、僕が価値あると思う世界の音楽を幅広く書いた。自分で言うと自慢話っぽくなってしまうけど、世界の音楽評論家で、世界中のポピュラー音楽をカバーしてまとめた人なんてないんですよね。僕はロックンロールが広がる前に邦楽から始まり、ラテンやジャズを聴き、ロックも、ロック以降の音楽も、好奇心がとにかく旺盛なので次から次へと新しい音楽を聴いてきた。それができたのは、時代的にもとても幸運だったと思います」
──音楽ファン、音楽を本当に必要としてる人は『ニューミュージック・マガジン』『ミュージック・マガジン』によって、なんと豊穣なものを得ることができたんだろうって思うんです。
「そうだといいんですけどね(笑)。僕はいろんなところに好奇心を振り向けて、いろんなものを吸収してきたことが結果的にこうなった。音楽を本当に必要としてる人は、好奇心がエネルギーの源になるはずなんですね。ところが今の若い人たちの音楽の聴き方は、友達がこれを聴いてるから自分もそれを聴かなきゃならないとまわりに全部合わせてしまうみたいな形です。また、音楽を作ってる業界の方もそういう形でまわりに広まりやすいような音楽しか追求しない、作らなくなっているような気がするんですよね。こういう状態が続いたら、音楽がおもしろい方向に発展していくのかちょっとお寒い感じがしています。でも、自分が生きてる間に音楽がどこに行くのか、音楽のこの先を見届けていかなきゃいけないという気持ちがすごくあります」

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