1944年生まれ。71年、東京・千歳烏山にロフト1号店「烏山ロフト」開店。73年、西荻窪にライブハウス「西荻ロフト」、74年「荻窪ロフト」、75年「下北沢ロフト」、76年に「新宿ロフト」、80年に「自由が丘ロフト」をオープン。81年に日本を出て5年間で84ケ国を放浪。87年にドミニカ共和国に日本料理店を開店。91年に帰国し、ロフトに復帰。91年「下北沢シェルター」、95年にトークライブハウス「ロフトプラスワン」をオープン。著書に『旅人の唄を聞いてくれ!』がある。LOFT PROJECT代表。
http://www.loft-prj.co.jp/




1973年、東京中央線の西荻窪にフォーク系のライブハウス「西荻窪ロフト」をオープン。南正人、西岡恭蔵、友部正人、浜田省吾、金子マリらが出演。74年には隣駅の荻窪にロックのライブハウス「荻窪ロフト」開店。ティンパンアレイ系の拠点となる。76年に創刊し、現在も続くフリーペーパー『ROOF TOP』第1号の表紙は矢野顕子。「新宿ロフト」は76年に開店。ARB、ルースターズ、BOOWYをはじめ数えきれない数のロックミュージシャンが登場。日本のロック史を作ってきた。写真は現在の「新宿ロフト」店内。

聞き手:佐藤 剛(音楽制作者連盟副理事長)
文:杉山 敦
写真:下山ワタル


僕らの原点には「アンチ芸能界」というのがあった。

──平野さんは、世界中で若者たちが反逆の狼煙をあげてた60年代について、あのときの政治運動というのは実は文化運動だったんじゃないかとおっしゃっていましたよね。その運動が大学のキャンパスから一掃された時期、70年代初頭から、烏山ロフトから始まりライブハウスを作り、音楽に場を提供してきました。
「僕が常々思うことは、僕らがやってきた、見てきた、触ってきた、感じてきたことは本当にグレイトだったということです。日本のロックの黎明期を僕らは現場で見てきた。僕はあの時代に青春を謳歌して、ロックを支持してきてよかった、幸せだった」
──でも、平野さんがご自分で“場”を作ってきたから“いい時代だった”と言えるわけで、ロフトがあったから今のロックの状況があるというのは歴史が証明している。
「僕らの原点は、どこかに“アンチ芸能界”というのがあった。はっぴいえんどから始まるシーン、“アンチ芸能界”を支持した。単に音楽がいいか悪いかだけではなくてそういうスピリットを“支持”したんだよね」
──だからロフトはお客さんが5人しかいないバンドでもずっと出し続けてきた。“動員がないからダメ”ということにはならなかったですよね。でも現在ライブハウス文化は隆盛と言われてますが、場所を提供してお金を得ている単に“貸し小屋”になってるんじゃないかという見方もありますね。
「それはすごく難しい問題で、僕らライブハウス側にもミュージシャン側にも責任がある。ライブハウスでやってきた連中が、売れたら出なくなる。プロダクションやレコード会社が“あんなところに出たらイメージダウンになる”と言い出す。それに対してライブハウスがどう防御したかというとノルマです。アマチュアミュージシャンから全部ノルマかけて、チケット30枚売ってこなきゃ出さないという話になっていくんです。そうすると金持ちしか出られない。全部のライブハウスがそうだとは思いませんよ。でも、そういう状況で果たしてライブハウスは“文化”なのかどうか。カラオケの延長線でしかない。ライブハウスというのは、本当は街の風景のひとつなんですよ。昔は金子マリのお母さんがかっぽう着を着たままライブハウスに来てたなんて時代があったじゃないですか。ロックというのは実は50年も歴史があるわけだから若者だけの音楽じゃない。でも今はオヤジも来れなくなってる」


日本のロックは何ができるのかずっと問いかけてきた。

──1966年(ビートルズ来日)が分岐点と考えれば40年間、2世代ですよね。今の僕ら、団塊の世代と言われてる世代から日常のサウンドトラックは演歌ではなくロックになってます。だから僕らがロックを支えているという意識をみんなが持てるようにしなくてはいけない。
「僕は9.11以降、世界は変わったと思ったんです。そのなかで日本のロックは何ができるのかということをずっと問いかけてきた。 政治的な歌を歌うのが素晴らしいと言ってるんじゃないんですよ。僕らが支持してきた音楽だってそんなことは歌ってこなかった。ところが、フジロックで観たサンボマスターは“愛と平和、愛と平和”と歌い、イラク戦争の話をしている。こんなシーンあったかよって! サンボマスター、銀杏BOYZ、フラカン(フラワーカンパニーズ)、曽我部恵一なんかが自分が好きなことを言い出したんだよ。今までそういうことは言っちゃいけない、レコード会社も手をひくし、聴衆もひいちゃうよという意識がずっとあったのが、違ったんじゃないかと。自由にやれるんだと、この時代になってくさびが取れたんじゃないかという気がしてるんですね。僕は今、彼らがどうなってどこに行くのか興味がある。それに彼らはでかいところでやっても、またライブハウスで平気でやる。彼らみたいな存在は僕らにうれしいよ」

原点に戻って、また僕らが興奮できる音楽が生まれてほしい。

──いつの時代でも反逆というか、“ここで発言しないでどうする!”って表現をしてきた人たちがいると思うけど、自主規制があったりして伝わらないようになってる。でも、ライブだったらここに来ている人たちに伝わる。だから、ライブで何が起こってるかというのが伝わるシステムが作れたら、実は表現している人たちがもっといるんじゃないかと思いますね。
「昔はロフトの前にライブが終わると50人ぐらい並んでて出てくる人たちにチラシ配って、若い子たちが自分たちの支持する音楽をどうやって広めようか考えて行動していた時代があった。それを今、全部プロがやるようになったでしょ。でも新人のときは誰だって手作りじゃん。もう一度原点に戻って、また僕らが興奮できる音楽がどんどん生まれたら素晴らしいね」


立ち上がってメッセージを送らないといけないと思う。

──新宿ロフトが30周年。「ロフト」は音楽を共有し、メッセージを発信する場を作ってきました。今、平野さんはこの場や歴史を踏まえて次にどうしていきたいと思っていますか? 
「ニール・ヤングが昨年、反ブッシュのアルバムを出した。あのマンネリのニール・ヤングが、“今の若い世代がブッシュに対して何も言ってないから僕が言うしかない”って。俺みたいな老人は何も失うことがない。だから好きなことを言って若い奴らを蹴飛ばすぜってことかね。……森達也が『放送禁止歌』という本を書いた。なんでこれを音楽の人がやらないのか。(98年に)原宿のホコ天が突然禁止された。確かに一部のミュージシャンは立ち上がって、僕も呼びかけられて行ったんだけど、結局、音楽業界は何もしなかった。みんなああいうところやライブハウスから出てきたのに、そのひとつが“非行の温床”だの“うるさい”だの言われてつぶされることに、日本の音楽業界やレコード会社は何をしたか。僕らは反省しなくちゃならない。ミュージシャンや音楽業界の連中が立ち上がってメッセージを送れるようにならないといけないと思う」

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